頭を使えば脳細胞は増加する

「脳神経細胞は再生しない」。これが大脳生理学の常識でした。成人になれば、1日2万から10万個の脳神経細胞が減っていくと、どの神経学の本にも書いてあります。

神経の病気で難病が多いのは、1度、壊れ始めた神経細胞は再生しないために、病気がどんどん進行してしまうからです。

たとえば、アルツハイマー病では、大脳の表面にある脳神経細胞が急速に減っていくため、記憶力の低下などの症状がでてきます。さらに、この脳神経細胞の減少を止めることができないので、

病気の症状は悪化の一途をたどるばかりです。逆に、肝臓の病気では、症状はよくなったり悪くなったりします。これは、肝臓の細胞は再生するため、症状が変動するからです。

しかし最近、脳神経細胞についての定説を覆す、画期的な発見がなされました。なんと、大人になっても脳神経細胞が増える、というのです。

運転歴30年以上の人で、海馬が3パーセント発達する

ロンドンのタクシーは、タラツシックなスタイルの黒い自動車でロンドン名物ですが、その事のスタイル以上に驚かされるのは、タクシー運転手がロンドンの複雑な道を迷うことなく運転し、目的地まで連れていってくれることです。

それもそのはずで、ロンドンのタクシー運転手になるには、2年間をかけて市街地図やよく使うルートを覚え、そのあと試験に合格して、そこではじめてライセンスがもらえるのです。そのことに目をつけた研究者がいました。ロンドン大学のエレノア・マグアイア一博士(認知神経学)です。

彼女は、ロンドンのタクシー運転手16人と一般の人50人を対象に、MRI を使って脳の構造を詳しく調べました。彼女は、筋肉が、鍛えられることで大きくなっていくのと同じことが、脳でも起きているのではないかと考えたのでしょう。

この研究結果は、2000年の「米国立科学アカデミー紀要」に掲載されました。それによると、タクシー運転手の脳のうち、「海馬」と呼ばれる部分の後ろのほうが肥大していることがわかりました。

海馬というのは、脳の内側にある脳神経細胞が集まったところで、記憶を一時的に残しておく働きをします。さらにべテランの運転手ほど、海馬の後方右側が膨らんでいました。

反対に、海馬の前部は一般の人よりも小さくなっていました。肥大しているということは、その部分の脳神経細胞が増えたことを意味しています。30年の運転歴の人では、3三パーセントもほかの人より海馬が発達していました。たった3パーセントかと思うかもしれませんが、それに伴って脳の神経細胞の数は20パーセントも増えたことになります。

これは、いままでの神経学の常識を覆す大発見でした。マグアイア一博士は「いつも道を探すことによる刺激が、脳の変化をもたらした」と推測しています。

ということは、頭を使えば脳神経細胞は増えるわけです。とくに、地図をアタマの中に記憶させるといった空間的な思考や、新しい体験をするといった刺激が、脳にとっては重要なようです。

「大人の脳も伸びる」が実験で証明された

これまで脳神経細胞は減るばかりと信じられていました。ところがここ数年、マグアイア一博士の研究以外にも、脳が大人になっても成長することを証明する研究結果が次々と発表されています。2001年5月16日の朝日新聞に、東京大学の教授らが、サルの大脳皮質で脳神経細胞が成長している様子を、特殊な染色によって証明しました。

また、米国のジョージ・バーツォキスらは、MRIで一9歳から76歳までの健康な人の脳を調べ、脳は48歳まで発達すると報告しています。

さらに、米国民間研究機関のソーク生物学研究所( カリフォルニア州) とスウェーデンのサールグレンスカ大学の共同研究グループによって、米科学誌「ネイチャー・メディシン」に、大人の脳の中でも神経細胞が生まれていることが発表されました。
この実験では、新しくできた細胞にだけ結合する物質を、50歳から70歳代のガン患者5人に投与しました。

彼らが死亡したあと、脳を解剖して調べたところ、海馬からこの物質が検出されました。つまり、大人の脳の中でも脳神経細胞が新しく生まれていることが証明されたのです。

大阪大学医学部の岡野栄之教授ゝ(現・慶應義塾大学医学部) と米コーネル大学の共同チームは、大人の脳に「神経幹細胞」があることを発見しました。

神経幹細胞というのは、「脳神経細胞になる前段階の細胞」のことです。彼らは、20歳代から50歳代の十数人の脳を調べ、その中に神経幹細胞を見つけましたが、そのうちの最高齢者は55歳でした。

神経幹細胞が大人にもあるということは、大人になつても神経細胞が新しくできる可能性があるということです。この研究チームはまた、神経幹細胞を取り出して、細胞の成長に必要な物質を加えて増殖、分化させることにも成功しています。このことは、環境さえ整えば、脳神経細胞は再生する能力を備えているということを意味しています。

これらの研究結果は、脳に対するこれまでの認識ばかりか、医学のあり方を変えてしまう画期的な発見ともいえます。たとえば、脳神経細胞が増える可能性を持っているということは、いままで不治の病といわれていたものも治る見込みがでてきたわけです。

実際、脳卒中患者への積極的な治療が試みられています。ピッツバーグ大学のダグラス・コンドジロルカとアジャイ・ニランジャンらは、悪性奇形腫というガン細胞から特殊な処理によってつくられた脳神経細胞を、脳梗塞患者12例に、600万個移植したところ、患者全例で運動麻痔などの症状に改善が見られたとしています。
これまで神経の病気を治す根本的な方法がなかったことを考えると、信じられない進歩といえます。