賢い 医者の選び方 医者との接し方 について賢い医者の選び方や接し方を医師側の立場からアドバイスしてもらいました。。医者から見た患者、患者から見た医者がポイントです。医者と向き合う心がまえのようなものを知っていると知っていないでは治療をすすめるときにもきっと大きく役立つでしょう。
「さわらぬ神に崇りなし」と言えば言いすぎでしょうが、医者にかかわることなく人生を送ることができれば、それが一番なのは言うまでもありません。しかし現実には、医者とかかわりをもたなければいけない場面もあるかと思います。
ある時期までは、医者との接し方なんか考えたこともなかった人が大手術のために大病院で入院したり、ガンになって病院のお世話にならなければいけない日が案外簡単にやってきます。
賢い 医者の選び方 医者との接し方 患者にはならない
医者に一切かかるなという意味ではないので勘違いしないでいただきたいと思います。医者にかかる際のみなさんの姿勢を述べているのです。「患者」の立場にまで、自分の身を貶めてはいけない意味なのです。
みなさんが素直に患者になりきってしまいますと、それはまさに医者の思うツボです。医者は「患者」に接する場合には、安心して医者を演じることができるのです。そして医者は強者、患者は弱者という図式が、どこまでも変わらなくなってしまいます。
インフォームド・コンセントや、患者の権利、セカンド・オピニオンと言ったところで、所詮は強者である医者が、強者であることをカムフラージュするための1つの手段にすぎないのです。
医者と患者の立場がはっきりしている限り、医者としての建前が前面に立ちはだかり、まさに医者主導の、建前通りの治療が展開されることになつてしまいます。なぜならば医者にとってはそれが一番慣れているスタイルであり、快適な形ですから。
相手の土俵で相撲を取るのは負けが決まっているようなものです。それは医療現場でも同様です。医者に接するときに、「患者」という立場はすこぶる不利になります。
理想は「友人」そうでなくても最低限「クライアント」という立場を崩してはなりません。そうでなければ、本音の医療はどんどん遠いのいてしまうでしょう。
したがって「先生」「お医者様」「患者」「診てもらう」「治してもらう」「薬をいただく」「お任せします」などという言葉は死語にしてしまうほうがいいのです。
主治医は自分と考える
そもそも、自分の命は自分自身のものなのですから、自分の命の責任は自分自身が持つべきです。このことは、なにも医者に一切かかわることなく、すべて自分で対処しろということではありません。
もちろん専門家である医者を活用することが賢明な場合も多々あるでしょう。医療機器や医療施設のお世話になることも当然あると思います。
しかし、最終決定は自分でするべきだということです。なんでもかんでもすべて医者任せというのは、いただけないことです。
家を購入する際には、住宅メーカー任せという人はいないはずです。自身で情報を集め、ある程度の知識を得る努力をされるのが普通です。
家に限らず、大切な物を購入したり、あるいは人生を左右する重大事を決めたりする場合には、いろいろとアドバイスは受けるかもしれませんが、最終的には自身で決定するはずです。大きな手術や治療が医師任せになってしまうのはおかしいのです。
知識を付けて、自分自身で考える
無知は明らかに寿命を縮めます。たとえば家を購入するとき、予備知識もなく、情報収集することもなく、いきなり住宅メーアーを訪れるということはないはずです。
ある程度の知識、少なくとも質問をする程度の予備知識は持って、業者と接するはずです。まして自分の命にかかわることとなれば、ある程度、病気や健康、心身についての知識を持つことは、自分の命を守るための必須条件だと思います。そういったことに全く無関心ということであれば、それは健康を放棄したことと同じと言えます。家を購入する例で言えば、家を買う資格がないということです。
ただし、情報を数多く入手すればそれでいいということではありません。集めた情報を取捨選択する力も必要です。そのためには科学的なもののとらえ方、論理的な考え方も必要になります。
科学的、論理的という言葉が難しければ、自然な考え方、まともな発想と言い換えてもいいかもしれません。まずは、自分の頭で考えて判断することが大切です。
特に日本人は、他人の頭に頼る傾向が強いようです。テレビ、知り合い、うわさで判断するのではなく、情報を入手したら自分の頭で考えるということです。他人はあなたのためではなく、他人そのものの利益のために考えているだけなのです。
たとえば「肥満症」のところでも触れましたが「今までにない画期的なダイエット! 」というキャッチフレーズを見つけたとしましょう。
もしかしたら、本当にそうなのかもしれません。しかしその確率はどうでしょうか。そこで考えてみるのです。今までに星の数ほど多くのダイエット方法が出現しては消えていった事実。
なぜ今までに決定打がなかったのか、なぜ今回は決定打なのか。星の数ほどあるというそれ自体が、決定打はないことの動かぬ証拠ではないだろうか。そう考えるのが、自然な発想ではないでしょうか。「ここだけのいい話」というのも同じだと思います。おいしい話に釣られる人が意外に多いのには驚きますが、そのようないい話があなたのところにやってくる確率を、まずは考えてみてください。
競馬の予想屋もそうですね。もしもその予想屋が当たるとすれば、2つの理由で矛盾します。1つは、なぜその予想屋がそこにいるのか? 本当に良く当たるなら、その予想屋自身がとうに大金持ちになって、予想屋などしているはずがありません。また、よく当たるのであればレースのオッズが変わってしまうはずですから、あなたの配当金は微々たるものになるはずです。
少し脱線してしまったので元に戻しますが、もしもみなさんが医者にかかって、薬を出されたとしたら、なぜ薬をのむ必要があるのか? その根拠(※エビデンス) は? 効果と副作用は? 副作用で命を落とす確率は?
その他の方法はないのか?のまなければどうなるのか? いつまでのむのか? コストは? 根本的に治るのかどうか? 対症治療にすぎないのかどうか? 医者であれば本当にのむのか? くらいは最低限訊く必要があります。医療相談をしていてがくぜんも、意外に多くの方が、服用している薬の名前すら知らない事実に惇然とします。
なぜなら薬は毒の一種です。副作用は必ずありますし、命を落とす可能性もあるのです。薬をのめと言われて、はいわかりましたと、何も訊かずに素直にのむ神経が、私にはとうてい理解できません。それはまるで、顔も性格も年齢もわからない相手と結婚するようなものだと思います。人生を賭けたギャンブルです。
病院での診察は演技?
病院(医院) をあらためて定義してみますと、「医者と患者が芝居を演じる舞台」ということができると思います。芝居はあくまでも芝居ですから、いくら迫真の演技であったとしても、所詮は虚構の世界です。とどしたがって、病院(医院) とは必要最低限のつき合いに留めるのが賢明です。決して長居をするところでも、ずっと通うところでもありませんし、その必要もないと思います。
医者とは、本来は病院外でつき合いたいものです。そうすればこそ、建前ではなく、初めて本音のつき合いができるのです。
つまり、人間同士のつき合いが始まるのです。少し極端な言い方になりますが、痛院の中だけで医者と会っている限り、みなさんにとって有用なことは何もないと思います。
医者が患者と本音でつき合えるほどの余裕を持つことを、病院という舞台は執拗に拒むのだということを、みなさんにはぜひ知っていただきたいのです。
いい医者と友達になる
自分で病気を治す力を高めるために欠かせないことは、本音でつき合いができるいい医者が身近にいるかどうかです。しかし、先ほどから述べているように、「医者と患者」の関係でいる限り、本音のつき合いはなかなか難しいように思います。
医療現場では、医者はもっばら建前で患者さんと接することになります。とはいっても、3分くらいしか接点はありませんので、打ち解けた関係になるには無理があるのかもしれません。したがって、プライベートでいい医者を見つけておくといいでしょう。
医療相談で、こんな事例がよくあります。主治医は「薬をしっかりとのまなくてはいけない」と言うが、親しい医者に相談してみたら「ここだけの話だけど、この薬は確かに効果は抜群だけど、のみ続けるとがんになる可能性がけっこう高いので、どちらかといえば服用は勧めない」と言われたというのです。ちなみにこの場合、主治医も親しい医者も、いずれも某国公立大学病院の教授です。
ここだけの話にしないでほしいと、いつも思います。そんな場合には、ほとんど「往々にして医者としての意見よりも、友達としての意見のほうが信憑性が高いですよ」と私は答えるのですが、大方の場合はそれで正解です。
医者も人の子。親しい人にはついつい本音で接します。個人的には心根の優しいのが医者の特徴です。場合によっては小心と言うべきこともありますが。
ただ、大学の教授や、大病院の院長や部長ともなれば、立場上なかなか本音でものを言うことがはばかられるのかもしれません。公の発言ともなると、やはり歯切れが悪くなるのは致し方ない部分もありますので、なんとかプライベートでつき合える、いい医者を早く見つけてください。
信用してもいい医者の条件
そうはいっても、本音で話せる医者がすぐに見つかるとは限りません。そこで、医者の友達が見つかるまでの当座は、医者を専門家の1人としてうまく活用すればいいと思います。
ただ、医者に依存しすぎては逆効果です。がん患者さんを対象に医療相談をやっていますと、医者を信用したあまりに死期を早めた方が意外に多いことに驚きます。医者の資質の低下も原因の背景としてあるのかもしれません。しかし、患者さんの方にも自立する気持ちがなければ、自己治癒力がなかなか働かないのかもしれません。
医者を活用する場合に、みなさんが留意しなければいけない焦点は次の2点です。
1つは、その医者がきっちりとカテゴリー分けをしてくれるかどうか。もう1つは、健診結果をきっちりと評価してくれるかどうかでささいす。この2点さえ外さなければ、あとはむしろ些細なことです。
次に健康診断(健診) の受け方を考えてみましょう。健診は漫然と受けるのであれば、意味がありません。何か疾患を想定して、的を絞って受けるのが得策です。その的とは、多くの場合は「がん」ということになりますが、40歳を超えると1年に1 回、健診を受けたほうがいいと思います。健診についてはいろいろな論議があって、受けても意味がないという意見もありますが、がん患者さんの記録を見る限りにおいては有用です。
また、少し乱暴な言い方ですが、がん以外の疾患は、ほとんど手遅れになることはありません。したがって、早期発見をあまり気にしなくてもいいと思います。やはりがんに的を絞って、健診は受けるべきだと思います。
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ただ、健診で重要なことを2つ、付け加えておかねばなりません。lつは、健診は決して万能ではないということ。「健診で大丈夫だったからまったく問題ない」ということではありません。
あくまでも1つの目安です。
2つ目は、健診はあくまでもできるだけ早期に発見するための手段であり、予防の手段ではないということです。健診もうまく活用すれば有用ですが、それよりもやはり、自己治癒力を高める生き方を優先すべきでしょう。
医者に遠慮は禁物!
医者の大方の習性として、どちらかと言えば押しには弱いところがあります。したがって医者にはあまり遠慮せず、どちらかと言えば厚かましく接する方が、結果的には得をする場合が多いと思います。
がん患者さんを見ていると非常によくわかるのですが、積極的で、自己中心的で、少々厚かましいくらいの人の方が、断然予後が良好です。私は日々がん患者さんの医療相談を行なっていますが、患者さんを大きく2つのタイプに分けることができます。
1つは非常に謙虚で、遠慮深く、あまり質問のしてこないタイプ。もう1つのタイプはしつこいくらいに質問を投げかけてくる夕イプ。相談される側としては前者のタイプの方がやりやすいのですが、結果放としてあまり予後がよくないのはつくづく感じさせられるところです。
一方、執拗に何度も質問をしてくるタイプの患者さんは、正直うるさいなと感じることもままありますが、結果的にはコみゅにケーションもより取れることになり、治癒率も高くなるのです。積極的で前向きな姿勢そのものがプラスに作用していることは確かかもしれませんが、えてして有意な情報がそういった押しの強い患者さんに流れやすいという事実もあるように感じます。
また、医者の気もどちらかと言えば押しの強い患者さんの方へ、優先して流れていくような印象を受けます。
受診時には、筆記用具や録音機器を
受診の際にメモすら取らない方も中にはいらっしやいますが、はなはだ疑問に思います。ひょっとすれば命にかかわるかもしれない大事な場面に手ぶらで来るとは、よほどの認識不足と言わざるを得ません。
これは、私だけでなく他の医者もそうだと思いますが、真剣に治そうといなう気が萎えてしまいます。患者さんの其撃な姿勢が、医者の真剣さと感応し、初めて相乗効果をもたらすのだと思います。
もちろん医者から得るものは情報だけではないでしょうが、漏れなく情報を把握するためにも筆記具もしくは録音機器の携行は必須だと思います。また、そういった情報はセカンド・オピ:オンを求めるときにも非常に有効です。そしてそういう真剣な態度を示すことにより、医者の本領も発揮されるのではないかと思います。
治療方法は定期的に見直す
今自分が受けている治療がどのようなもので、どのような意味があるのか、そしてどのような副作用(デメリット)があるのかということは、少なくとも把握しておくべきです。
もちろん、ほとんどの医者は常に全力で患者さんに臨むわけですが、ある誹一定の確率でミスも起こります。また、医者は数多くの患者さんの主治医をしており、把握できる範囲にも限界があります。したがって、すべてを医者任せにするのは非常にリスクがあると言わざるを得ません。
医療相談をしていても、残念ながら、単純なミスや見逃しによって病状が悪化してしまったと思われるケースも少なくないのが現状です。
具体的には、自分の病状や治療内容を把握しておくと同時に、定期的に治療内容を見直す機会を作ることが大切です。たとえば、薬を処方されている場合には、ずっと同じ薬剤を言われるままに服用し続けるのは問題です。時間が経過すれば病状もきっと変化するはずですし、そうであれば処方内容も変えることが必要です。慢性疾患の場合、往々にして同じ処方、同じ治療方法が漫然と続くことがあります。
それは厳密に言えばありえないことなのですが、ついつい見逃されてしまうこともあります。したがって、折に触れ、自分から治療内容の見直しを医者に促すことも必要です。
医者への「お礼」は「虚礼」
少し切り出しにくそうに、「こんなこと訊いていいのかどうか迷ったのですが、周りの方もしていらっしやるようだし 、いくらくらい先生に包んだらいいのでしょうか? よかったら相場を教えてもらえませんか」と、そんな質問を受けることがたまにあります。
「そんなこと、あんまり気にしなくていいですよ。それよりもご自身が治ることを一番に考えましょう」「「別にお礼なんか要らないですよ。病院の待合室や病室にも、お礼はしないようにと、張り紙がしてあるでしょう。どうしてもお礼をしたいのなら、退院のときにでも、2000~3000 円くらいまでで、なにか気のきいたものをプレゼントすればどうですか? 」最近、ほとんどの病院には、あちこちに「お礼はしないでください」と、まるで動物園の「えさをやらないでください」の看板のように、張ってあるのが目に付きます。
まだまだ「お礼」の悪しき風習がしぶとく残っていることの現われだと思います。昭和30年代までは、医療費そのものが公定価格ではなく自費だったので、それぞれの患者さんが自分の収入に応じて、それなりのお礼をしていたこともありました。
その名残の「お礼」だけが習慣として生き残っているのかもしれませんが、結論から言いますと、あまり好ましい風習ではありません。ここで言う「お礼」とは、手術の前などに、こっそりと主治医や執刀医に手渡しする少し高額なお金のことを指します。これとは別に、退院のときなどに感謝の気持ちを表わしたくて、看護スタッフや主治医に自分の好きなものをプレゼントするというのは、全く自然で、何も問題ないと思います。
こそでのお礼は堂々と渡しますので「堂々タイプのお礼」と呼び、前者の袖の下のごとく、こっそりと手渡しするお礼を「こっそりタイプのお礼」と区別しておきます。もちろん、ここでの話は「こっそりタイプのお礼」ですが、それがなぜ好ましくないかを説明しましょう。
理由はいくつかあります。最大の理由は、医者と患者さんの問に、大きな隔たりを作ってしまうことです。たとえば友達とのやりとりを考えてみてください。仮に友達に何かをしてもらったときに、法外なお礼をあらたまってするでしょうか? おそらくそんなよそよそしいことはしないと思います。そのかわり、そう金額ははらないもので、友達が気に入りそうなものを贈るはずです。
もちろん逆の立場でもそうだと思います。したがって、贈る方にとっても、もらう方にとっても、ごく自然なやりとりだと思います。結果として、友達関係はより円滑になることはあっても、悪くなることはないでしょう。もうみなさん、おわかりだと思います。みなさんが、あらたまったお礼を医者にすることは、とりもなおさず、よそよそしさ、水臭さの感情をメッセージとして医者にぶつけていることになり、受け取った医者は当然、それを受け止めますので、以後、そのような関係で振る舞うことになります。患者さんの心のどこかで、自分だけを特別扱いにしてほしいというあざとい気持ちと、みんながやっているのだから自分だけがやらないと、損な扱いを受けるのではないかという不安な気持ちとが、ごちゃまぜになっているのだと思います。
しかし、いずれにしてもそのようなお礼はやはり「虚礼」です。あまり意味がないですし、むしろマイナスかもしれません。
まともな医者ならば、お礼を受け取らないと思いますが、断るやりとりそのものが、気まずさを誘うことになります。また、お金で左右されると思われたことにプライドを傷つけられる医者もいるでしょう。また、私であれば「きっと周りに言われてそうしたのだろうな、無用な気遣いをさせてしまったな」と思うでしょうし、ある医者にとっては、受け取ってかえってプレッシャー になるかもしれません。はたまたお礼をもらうことに慣れっこになっていて、なんとも思わなくなってしまった名医もきっといるでしょう。きずないずれにしても、お礼によって、医者との心の群が深くなることは万が一にもないということです。かえって、よそよそしくなるのが関の山です。
もちろんお礼がなかったからといって、なおざりにする医者もほとんどいないはずです。まれにお礼の有無や金額によって、扱い方を逐一掛酌する医者もいるかもしれませんが、その場合にはぜひご一報いただき、断固糾弾していきましょう。少し話が逸れますが、医者もピンからキリまでいます。卒業したての医者と百戦錬磨のベテランの医者との差、能力・資質の個人差は、厳然とあります。
そういったいろいろな医者がいる中で、誰もがいい医者にかかりたいと思うのは当然のことです。そういった希望を踏まえ、患者や医者が、医者を評価するシステムを構築し、その結果を公表し、その評価いかんによっては診療報酬などで何らかのランク分けを行なうことも、考慮する必要があると思います。
さて、話を元に戻します。医者にとっては、患者さんがお礼をくれる「おいしい患者」になるのではなく、心の触れ合いもできる、友達感覚でつき合えるような関係になつてくれた方が、結局は治療もやりやすくなり、治癒率を高めることができるはずです。そういう意味でも、医者へのお礼はしないい方が、医者にとっても患者さんにとっても大きなメリットになるでしょう。
医者の本当の正体は白衣を脱げば小心者、白衣を着れば慢心者
医者にはどんな人間が多いのでしょうか? 実を言うと、今までに同じ質問を数多くの方々に投げかけてきました。その結果、良い悪いは別にして、医者は自分たちとは違う人たちだというイメージを持っている方が多いようなのです。
でもそれは大いなる誤解です。なぜこのような質問をするかと言いますと、良きにつけ悪しきにつけ、みなさんが医者を特別視すればするほど、医療は本音から遠ざかり、建前だけの実効のないものになっていくように感じられてならないからです。みなさんが医者を特別視すればするほど、医者もますます医者を演じなければいけないのです。
つまり、医者は「決して患者になることはない医者」を演じるのです。医者は患者を客観視し、自分が患者になることがないという錯覚に陥ってしまうのです。要は、医者の偽装が常態化してしまうのです。
しかし正体は全く異なります。医者も患者になりえますし、医者が特別に長生きするというデータもありません。あるいは、「医者は聖職」などと誰かが無責任に言うから、みなさんの誤きせん解を招くのです。
聖職などというものがこの世にあるはずもありません。それほど優秀ですばらしい人たちばかりが医者になっているわけではありません。多くの医者は、かつての私も含め、白衣を脱げば小心者、白衣(権威) を着れば慢心者なのです。それは医者に限らず他の職業にも共通するところではないでしょうか。
逆らわず、従わず
昔からよく、「並のバカなら怖くはないが、なまじ権力(学問) を持ったバカほど怖いものはない」と言います。確かにその通りだと思います。
したがってその対処法として、「逆らわず従わず」が最も有効です。これは、もちろん医者に対してもあてはまります。本当に優秀で、人格もすばらしい医者に出会えればそれは幸いです。しかし、それは宝くじに当たるようなものです。
すべての医者が人格者というわけではありません。本当にどうしようもなく頭の堅い医者もいるものです。ただ、こういう輩に対していたずらに喧嘩を売るのは得策ではありません。
まずは、医者から有意な情報やアドバイスを入手できれば、よしとしましょう。うまく持ち上げて医者を活用すればそれでいいと思います。要するに、彼らよりも賢く振る舞うことが重要です。
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